「この写真の中に僕が写っています。どこにいるかわかりますか?」
あたり一面茶色の水に覆われ、木片や車などが浮いています。人の姿など一切確認できません。皆が黙って探していると、「ほら、ここに黒っぽいものがちょこんとふたつ見えるでしょ。これが僕の履いていた靴です。ここに僕がいるんです」。
それは、2011年3月11日の東日本大震災で、市街地の8割ほどが津波で破壊されてしまった南三陸町の写真でした。靴の主は、当時宮城県南三陸町教育委員会生涯学習係長兼スポーツ振興係長で、後に志津川公民館などの館長を務めた佐々木仁一さんです。佐々木さんは車ごと津波に飲み込まれ、ガレキがぶつかってくる中、死を意識したそうです。でも、やっとの思いで車から脱出し、濁流に流されながら無我夢中で流されてくる物にしがみつき、想像を絶する強さの引き波には電線を腕に絡みつけて九死に一生を得たのだそうです。
昨年11月28日、石川県穴水町で「能登地区公民館フォーラム2024」が行われ、私も参加しました。場所は「のとふれあい文化センター」のホワイエです。600席もあるホールがありますが、地震で被災したため使えず、やむなくホワイエに椅子を並べることにしたそうです。思うように復旧が進まず、この先公民館活動をどう進めていったらいいのか、14年前に大きな痛手を受けた東北のおふたりの公民館関係者にお話をうかがいたいと、石川県公民館連合会が企画しました。当日は、雷雨や雹が降るという悪天候でしたが、170人もの公民館関係者が集まり、ホワイエに座れなかった方々は、別室のモニターを見ながらの参加となりました。
冒頭でご紹介した佐々木仁一さんは、1本の鉛筆さえ無い中で避難所の運営を始めたそうです。壁一枚隔てた隣の部屋は遺体安置所。とにかく目の前にいる人たちを救わなければと、生き延びてもらいたい一心で頑張ったそうです。そんな中、下半身だけ運ばれてきた遺体がDNA鑑定で行方不明だった母親だとわかったそうです。遺体の一部でも見つかって嬉しかったという言葉に胸が詰まりました。
この先、どんな災害に見舞われるかわからないが、あきらめてはいけないというメッセージが心に強く響きました。また避難所など、その場でのつながりを大事にしよう、人と人とのつながりはどんな時でも生きる力になるのだからとも。
震災後、志津川公民館などの館長を務めたときは、公民館に来てくれたらただでは帰さない、必ずお茶を出しておしゃべりするようにしたそうです。どんなことでもいいから地域の人の話を聞くこと、愚痴を聞くことも大事。それが地域のつながりを紡ぎだす力になったと言います。また崩壊したコミュニティを復活させるには、郷土芸能を復活させることが近道だというお話にも納得させられました。
もうひとかた、当時岩手県大槌町の教育委員会生涯学習課長などを務めていた佐々木健さんは、「復旧と復興は違う。復旧は施設やインフラの復旧、復興は創造、つまり新しい未来の暮らしと社会を創出していくことだ」ということから始まり、行政は学校再建には力を注いだが、公民館は冷遇されたと感じたと、おっしゃっていました。
ほとんどの自治体にある市民憲章や町民憲章には、「文化」を掲げているところが多い。生きることは、まさに文化そのものである。だから公民館が大事なのだ。まちづくりには公民館が不可欠なのだと、力強く語ってくださいました。避難所での生活は生涯学習そのもの。だから運営にも全力で当たったそうです。その姿を見た地域の人に「あんたがいなくなったら避難所にいるみんなが困る。だから危険なことはしないで、ここにいてほしい」と頼まれたそうです。いかに奮闘したかが伝わってきました。会場の参加者からもたくさんの質問があり、外は真冬のような寒さでしたが、会場は熱気に包まれていました。
能登半島地震から1年が経ちました。道路の復旧も遅れ、まだ崩れ落ちたままの家も多く見受けられます。あの日、久しぶりに顔を合わせたご家族もいたことでしょう。ほろ酔い気味の方もいたかもしれません。でも、災害は時を選びません。家が崩れ停電してまわりの状況もわからない不安のなか、みんな着の身着のままで皆公民館に逃げてきました。地震で命を落とされた館長もいました。公民館のカギを開け、住民の受け入れをするべく臨機応変に動いた公民館の皆さんに頭が下がります。東日本大震災の復興の話を聞き、能登の公民館関係者の皆さんも復旧ではなく、復興に思いを寄せるエネルギーをいただいたと思います。がんばりましょう!