昭和の大スター橋幸夫さん、俳優の吉行和子さんが相次いで亡くなり、脚本家の山田太一さんも一昨年亡くなりました。3人にはある雑誌の連載でインタビューしたことがあります。
橋さんは中学生までは空手や柔道に夢中だったそうです。ところが、歌好きな母親が強引に作曲家の先生に弟子入りさせてしまったとか……。橋さんは歌のレッスンが嫌で嫌でたまらなかったそうですが、デビューが決まってしまいました。頑固で職人気質な父親にはデビューどころか歌のレッスンを受けていることも内緒だったそうです。橋さんがテレビ初出演で「潮来笠」を歌ったとき、父親は心臓病で入院中でした。病院のテレビで橋さんが歌う姿を見てたいへん驚いたそうです。「心臓に悪かっただろうなぁ」と橋さんが笑ったことを覚えています。呉服屋さんだったので、その後は父親がステージ衣装を作ってくれました。
「ふぞろいの林檎たち」の脚本を書いた山田太一さんにお話をうかがったのは、山田さんが75歳のときでした。誰に対しても何に対しても謙虚な態度で、物腰が柔らかいことと慎重に言葉を選んでお話しなさる姿勢に感動しました。「食べるのに非常に困った時代を経験したのに、今しれっとウマイだマズイだのと言えたオレか、と思ってしまうんです。積極的においしいものを食べようとは思わない、身近にあるものを大切に食べようと思っています」という言葉が心に刺さりました。「面白い雲ですね。ドラマに使えそうだ」と、ぽつりとつぶやく山田さん、脚本家は見る目が違う!と思いました。
吉行和子さんが料理は苦手で料理はしないことは有名です。セリフを言いながらお米を研ぐシーンでは緊張して冷や汗が出るとのこと。「ふぞろいの林檎たち」ではラーメン屋のおかみさん役で、包丁を使うシーンは本当に嫌だったそうです。ここまで生きてきたのだから、母(あぐりさん)と一緒に元気でいるには、寝ること、マイナスな気持ちは持たないこと、体にいいものを入れていくこと、この3つを大切にしているとおっしゃっていました。お母様のあぐりさんは97歳で転んで骨折するまで美容師の仕事を続けていました。91歳で初めて吉行さんと海外旅行へ行ったというお話には驚きました。
インタビューした当時(2009年)、橋さんは認知症の母親の介護をしていました。認知症の方がどんな態度をとっても否定しないで、すべて受け入れてあげることが大事だとおっしゃっていた橋さん。晩年は認知症であることを公表し、命ある限り歌い続けると、認知症でも胸を張って生きられることを身をもって教えてくれました。