「これはね、お母さんが結婚した時に持ってきた着物だよ」。そう言って母は、深い紫色の着物を見せてくれました。袖と裾に華やかな松の刺繍がある、手触りの優しい着物です。ちょっと羽織ってみてと言われ、袖を通すと、「似合うね~」と言って、母は目を細めました。私にくれると言ったのですが、持ち帰っても、しまう所もなかったので、「また今度ね」と言いました。でも、「今度」は訪れませんでした。それから3か月後、母は還らぬ人となりました。
遺品となってしまった母の着物を、一枚一枚広げて改めて見てみると、小学校の入学式に着ていた着物や、お正月用の物など、母の思い出が蘇ってきました。大切にしていた小紋もありました。何の柄だろうと目を凝らしてみたのですが、わかりません。仕立てた時の端切れに「家内安全」と書いてあるのを見て、「これは、すべて"家内安全"という文字が模様になっているんだよ」という母の言葉を思い出しました。しつけのついたままの羽織もありました。あの日、大事にしていた着物を何枚もタンスから出して私に持たせようとしたのに、断ってしまった自分を悔いました。喜んでもらっておけば良かった……。
「似合うね~」と言っていた、母が嫁いだ時に作った着物を着てみました。身長が150㎝もなかった母の着物は、裄も丈も短めでした。寸法直しをしようと呉服屋さんに持って行くと、60年近く経っているので、微妙に変色しているかもしれないのでやめたほうがいいと言われ、アンティークの着物は人気があるから売ってほしいとも言われました。寸法直しは諦めていたら、友人が、ある呉服屋さんを教えてくれました。
母の着物を持って行ってみると、狭い店内は着物姿のお客さんでいっぱいでした。事情を話して着物を見せると、「立派な着物ですね。錦紗縮緬というたいへん軽くてしなやかな物です。お母様が大切になさっていたお着物なんですね。大丈夫!ちょっと工夫すれば着られますよ」。
さっそく着付けをしてくれました。おはしょりを作るために腰ひもを少し下に結び、えり抜きを上手にすれば裄も短くならないという言葉通り、見事に着つけてくれました。お店の帯を借りて締めてみたら、自分でもうっとりするほど似合っていました。これに、以前母からもらった金襴緞子の帯を締めてみようと思いました。
母が若い頃、八王子は絹織物が盛んで、母は織物工場で働いていました。身寄りがなかった母は、自分で嫁入り支度をし、この着物も作ったのでした。母の想いが込められた着物、今年、これを着て朗読の舞台に立とうかな……。