東京駅と八王子市の高尾駅を結ぶJR中央線は、私の通勤路線ですが、人身事故などでよく遅れます。その日私は、NHK文化センターの講座があり、発表会のDVDを人数分持って行く為、大きなトートバッグを抱えていました。通勤ラッシュで車内は混みあい、具合が悪くなった人を教護したり、緊急停止ブザーが鳴ったりして、かなり遅れていました。運良く網棚が空いたので、重いトートバッグを載せました。ショルダーバッグだけになり、楽になったのも束の間、再び電車は停まってしまいました。その駅は地下鉄と接続していたことに気づき、咄嗟に乗り換えることに。発車前の地下鉄に座ることができ、ホッとした瞬間、荷物を忘れたことに気づきました。血の気が引くとは、このことです。私は人波をかき分け、中央線の改札口へ走りました。駅員さんは忙しそうでしたが、私の動揺したようすを見て対応してくれました。
「あの…今の中央線に、忘れ物。これから仕事で使うんです。すぐ連絡してください。ピンクと黒の大きなトートバッグで、中に『朗読と想いを伝える夕べ』というDVDがたくさん入っています。あー、どうしよう!?」。
話し方教室の先生とは思えない要領を得ない口ぶりで、益々自己嫌悪に陥りました。途中駅で確認はできないので、東京駅で確認したら携帯電話に連絡すると約束してくれました。地球の反対側まで沈んでしまいそうな落ち込んだ気分で地下鉄に乗っていたら、トートバッグを確認したという電話がありました。私は送話口を手で覆い、小さな声で何度もお礼を言いました。
その数日後、夫と中央線に乗り、終点で降りようとしたら、網棚に女性物の大きな鞄が忘れられていることに気づきました。持ち主がいないことを確認し、駅員さんに知らせようとしたら、後ろの車両から歩いてきたホームレス風の男性が、サッとその鞄を手に取り歩き出しました。堂々としています。私は、ホームにある駅員さんの詰所に駆け込み、忘れ物を持ち去ろうとしている怪しい人がいるから来てほしいと頼みました。その時、夫の大きな声が! 正義感の強い夫が、怒ってケンカになっているのではないかと思い、駅員さんと急いで行ってみると、夫がその鞄を持ってこちらに歩いて来ました。
「これ、忘れ物です。遠くの車両から来た男が持ち去ろうとしていたので、『それ、おじさんの物?』って聞いたら、『違う、届けようと思って持ってきた』と言うので、僕が届けるよと言って、持ってきました」。
私が感心したのは言うまでもありません。その男性を傷つけることなく、鞄を取り返したからです。私のトートバッグが戻ってきたことに、改めて感謝したと同時に、いつも私に、声が小さい、滑舌が悪いとダメ出しばかりされている夫を、ほんの少し尊敬しました。