「喜ぶ顔が見たいと思う人が、また一人いなくなっちゃったな」
前号でお伝えした母がついに亡くなった時、夫が言った言葉です。
母は、あと数日の命というのに、ベッドから落ちると危ないからという理由で拘束されていました。胸水を抜くために差し込んだ器具のところが当たって痛いから、帯を解いてほしいと訴える母に、心が張り裂けそうになりました。夜も母と一緒に居られるようにしたいと家族で相談し、終末医療の専門病院に転院することを決めました。
転院前夜、母はいつものように「今夜は、ここに泊まっていけば? 一緒に寝ようよ」と、せがみました。少し悩みましたが、「明日から、ずっと一緒に居られるからね」と言って、帰ってしまいました。
翌朝、転院するために病室に行くと、母の容体が急変し、40度の熱が出て肺炎にかかり、きょうが山だと言われました。これでも転院するのかという主治医の言葉に、ここでは死なせたくないという一心で転院しました。民間救急車の中で、意識のない母の手をずっと握りしめていました。
転院先の病室は、広くてリゾートホテルのようでした。日差しが溢れる室内で、母の生き延びるための戦いが始まりました。私達夫婦と弟夫婦、それに私の息子、合わせて5人が二晩病室に泊まり込みました。片時も離れず、交代で母に付き添いました。深夜、重苦しい緊張感のなか、突然、息子が母の肩を優しく叩きながら「横溝さーん」と呼びかけました。すると、それまで声を発しなかった母が、小さな声で「はーい」と答えたのです。看護師さんの呼びかけだと思って条件反射したのです。病室に初めて笑い声が響きました。それをきっかけに母の意識も戻り、熱も下がりました。
でも、体は自分では動かせなくなり、肺は真っ白で酸素マスクが手放せなくなりました。いつ死が訪れてもおかしくない状態でしたが、母は、時にはユーモア溢れるひと言で私達を笑わせてくれました。転院してから息を引き取るまでの12日間ずっと交代で泊まり込み、母との時間を慈しみました。
病室で母といる間、肺癌で自宅療養していた父を必死で看病していた母を思い出しました。いくら頑張ってもダメだと、私は諦めていました。でも、母は奇跡を願って、昼も夜もつきっきりで看病していました。あの時の母の一途な思いが、同じ立場になってやっとわかりました。
母がいなくなって、私の中で母の存在は日々大きくなっていきます。もう一度、母の喜ぶ顔を見たいなぁ……。