秋の火災予防運動に合わせて、故郷、八王子市で一日消防署長を頼まれました。当日は制服を着て、八王子駅前広場で行われる消防訓練の指揮を執るのだそうです。東京消防庁に取材に行くたびに、着てみたいなと思っていた憧れの制服です。
当日の天気予報は雨でした。中止になったら制服を着られません。幸い、朝起きたら雨は上がっていました。今にも降り出しそうな空の下、私は紺色の制服に身を包み、広場で一日消防署長委嘱状授与式に臨みました。制服を着ると、背筋がピッと伸び、気持ちまで引き締まるような気がしました。
いよいよ梯子車に乗って訓練開始です。八王子の駅ビルで火災が発生し、レスキュー隊が救助に駆け付け、逃げ遅れた人を背負って、ビルの壁面をロープを伝って降りるという想定です。私はヘルメットをかぶって梯子車に乗り込みました。私の合図で、レスキュー隊員は人形を背負ったまま、するすると、まるでスパイダーマンのように駅ビルの壁面を降りてきました。見事でした。
訓練だからいいものの、これが実際の火災現場だとしたら、私はきっと足がすくんでしまうでしょう。常に危険と隣り合わせの現場で救助に当たっている隊員の皆さんに、あらためて敬意を払いました。
火災が発生すると、消防士は、耐火服やボンベなど、20キロにもなる装備を身につけて現場に向かいます。救助を求める人がいても、火の勢いが強くて救い出すことができないこともあります。そういう時に抱える心の痛みは、計り知れません。消火、救助作業中に命を落としてしまうことだってあります。
この春、四谷消防署を訪ねた折り、消防士一筋で勤めあげ、3月いっぱいで定年退職するという方にお会いしました。その方が、火災が発生したとき、実際にどのように装備するのか見せてくださいました。それは、早回しのビデオを見ているようでした。「1秒でも早く現場に駆けつけなければ!」という使命感が、隙のない動作に表れていました。いくつもの修羅場を乗り越えてきたその横顔は、謙虚さと逞しさに溢れていました。 たった一日だけの消防署長でしたが、制服には、喜び、悲しみ、使命感など多くの思いがこめられていることを感じました。このまま着て帰りたいとひそかに願っていたのですが、制服の重みを考えると畏れ多くて、泣く泣く脱いで署長の職務とお別れしたのでした。