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★エッセイ「こんにちは」に心をこめて
公民館が医療施設に(宮城県亘理町)
宮城県亘理町の中央公民館で、男女共同参画社会をテーマに講演したのは平成16年のことでした。図書館と郷土資料館が一体となったお城のような建物「悠里館」に目を見張り、おみやげにイチゴをいただいたような記憶があります。斎藤町長をはじめ、教育長など大勢の方々がお越しくださいました。あの亘理町が、三陸海岸沿いの町だとは、その時は意識していませんでした。
3月11日の、あの大津波により亘理町も大きな被害を受けたことを知り、依然として復興が進まない現地の状況を知るにつれ、中央公民館に電話をしてみました。館長は鈴木久子さんに変わっていました。
「公民館は、今はインフルエンザなど感染症にかかってしまった方たちの療養施設として使われていて、全国からかけつけた医療関係者の宿泊場所になっている。職員も、公民館とは全く別の業務に就いている人もいて、いつになったら落ち着くのか見通しも立たない」。
言葉を選んで、ゆっくりと、館長としての思いを伝えてくださいましたが、途方に暮れているようすが電話の声から伝わってきます。聞いている私の方が泣けてきました。
「大変ですね。頑張ってくださいね!」
それだけ言うのが、精一杯でした。頑張っている人に、「頑張って」と言うしかない自分も情けなくなりました。
その亘理町中央公民館に行ってきました。公民館へ向かう途中、海岸からかなり内陸部まで、メチャクチャに壊れた家屋の上に大きな船が乗り上げ、津波の被害が大きかったことを物語っていました。決して「瓦礫」ではない大切な物が、無残な姿で道路脇に積み上げられていました。
鈴木館長は身内にご不幸があったそうで、公民館にはいらっしゃいませんでした。しかも、津波で家を流されてしまったのに、公民館の仕事で連日走り回っているというのです。職員5人のうちふたりは、遺体安置所の係りとして24時間体制で勤務にあたっているとのこと。精神的にもきついだろうと、心が痛みました。総務班長の馬場昌弘さんが、今年度の講座・教室開設要綱を見せてくださいました。そこには馬場さんが講師を務める「地震・防災講座」もありました。本来ならば、今ごろ、この公民館は地域の人の活気があふれているはずなのに……。
亘理町には、4つの公民館があります。当日、公民館に避難してきた人も大勢いましたが、荒浜公民館は津波で水没してしまい、吉田公民館も1階まで水がきたそうです。復興に向けて地域の話し合いをしたいから、早く公民館を使えるようにしてほしいという意見が届き、こんな時こそ、公民館の出番なのではないかと思いました。
地域とのつながりが公民館の力(気仙沼市)
気仙沼市にある松岩公民館は、地震発生時から地域の避難所としてがんばっているという話を聞いて、さっそく行ってみることにしました。「松岩公民館」という看板を頼りに坂を上っていくと、大勢の人が集まって賑やかな一角が広がっていました。腕章をつけた駐車場案内係の人もいます。大きなテントが張られていて、お祭りのような活気がありました。そこが松岩公民館でした。玄関を入るとおびただしい数の靴が並んでいました。受付の女性の「こんにちは」という明るい声に歓迎されて、びっくり! 突然の訪問に嫌な顔をされると覚悟していたので、その対応に、思わず私も笑顔で挨拶しました。
事務室で斎藤文良館長(70歳)にお話をうかがいました。松岩公民館は、気仙沼市で唯一の指定管理者による公民館で、二十数名からなる公民館経営委員会の皆さんが運営しています。ちょうど経営委員長の、吉城亨(77歳)さんもいらっしゃったのでおつきあいいただきました。
地震がおこったとき、棚から一斉に書類などが落ちてきて、立っていられないほど体が揺すぶられているなか、齋藤館長は、「これは大変なことになった!きっと大勢の人が避難してくるだろうから、食料やトイレを調達しなければ!」と、思ったそうです。
とりあえず、公民館の少し下のほうにあるお寺にお願いしてロウソクを確保。ひと月ほど前に職員のご家族が亡くなったので自宅にロウソクがあるだろうと思い、それも提供していただいたとか。その手際の良さに、脱帽! その夜は、600人以上の人たちが着の身着のままで公民館に避難してきました。毛布もなく、ロウソクのもとで過ごしたそうですが、かけつけてくれた地域の人たちが炊き出しをしてくれたそうです。ライフラインも途絶えた不安な夜、皆で分け合って食べたおにぎりは、なによりもありがたかったことでしょう。
4日めには、避難所にいる人たちの名簿を作成。食事時になるとやってくる人もいるようなので、安全面からも名簿の必要性を痛感し、勝手に出入りできないようにしました。このように、斎藤館長がライフラインの確保や危機管理に長けていたのは、長年の役場務めや自主防災組織結成に尽力した経験が役立ったからだとおっしゃいます。
そんな斎藤館長が最も心を砕いたことは、避難者をまとめることでした。地元の漁師さん達は、自己主張が強く、「俺が、俺が」と言いだすと、まさしく「船頭多くして…」という状態になってしまうので困ったそうです。そこで、個別に話し合いを重ね、勝手に行動しないで、必ず館長を通して物事を進めるようにお願いしたそうです。
避難所として生活のペースがつかめた頃、斎藤館長がめざしたことは、入所者に自治の力をつけてもらうことでした。入所者同士でリーダーを決め、話し合いに参加してもらうようにしました。1か月経ったころ、食事作りも自分たちでしようと提案し、昼食はボランティアに作ってもらいましたが、朝食と夕食は、入所者が自分たちで賄うようにしました。お弁当も自分たちで作るようにしたそうです。家が流されてしまったり、家族を失ってしまったり、それぞれ辛い状況ではありますが、食事作りは、これまでと同じようにすることで自分の暮らしのペースを作り、いつまで続くかわからない避難所暮らしのなかで、家族の日常をつくる手立てになると思ったからです。
4月24日現在、84世帯、194人が暮らしています。靴をきちんと揃えない子どもを見つけると、館長は、「坊や、靴は揃えておこうよ」と、注意するそうです。避難所といえども、社会ですから、しつけは欠かせません。"日常が社会教育の現場だ"という言葉が、深く心に響きました。
松岩公民館は、地域に合った公民館を作りたいと地元の方たちが協力して設立しました。地域の皆さんの熱い思いが実ってできた公民館で、優良公民館表彰も受けています。自分たちで運営したいと、経営委員会が手を挙げて指定管理者になりました。館長になって丸1年を目前にして遭遇した大震災、齋藤館長の行動力もさることながら、震災当日からかけつけてくれた経営委員のメンバーの協力がなくては成し得なかったでしょう。学校が始まるまで、ボランティアとして手伝いに来てくれた地元の中学生もいました。大勢の地域の人によって、支えられていることが分かります。感謝の気持ちを伝えるために、毎日午後3時に、支援物資でいただいた物のうち日持ちしないものを、避難者や地域の皆さんに配っています。天気のいい日には600人ほどが並ぶこともあるそうです。地域と公民館とのつながりが、いかに大切であるか教えてくれます。そのつながりが、いざという時に大きな力を発揮し、命をつなぐ場となりうるのです。
支援物資を届けて帰る時、ずっと付き添ってお見送りまでしてくださった吉城委員長と握手して公民館をあとにしました。数日後、達筆な毛筆で書かれた支援物資のお礼状が届くではありませんか! 避難所としてゆきとどいた体制ができていることに、また感嘆しました。
子どもの笑顔が明日を創る(仙台市)
仙台市でもいくつかの公民館を訪ねました。仙台市では、公民館は市民センターという名称で、市の職員と「公益法人仙台ひと・まち交流財団」のスタッフが運営しています。
青葉区中央市民センターの事業企画係長の樋口千恵さんは、地震の時、利用者の誘導にあたったそうですが、なかには、非常事態なのに、いつものように椅子の片づけをしようとする人がいて驚いたと言っていました。片づけはいいからすぐに避難するように促したそうですが、いかにも律儀な公民館利用者の気質を表すエピソードだと思いました。仙台市で定めているマニュアルでは市民センターは避難所には指定されていませんが、夜になるにつれて、次から次へと避難者がやってくるので隣の小学校だけでは収まりきれず、急きょ、市民センターも避難所として解放し、しばらくの間、炊き出しなどを行いました。帰宅できない人や旅行者も多かったそうです。マニュアルに縛られず臨機応変に対応したことが、大勢の人の窮地を救ったと言えるでしょう。
若林区では、多くの建物が津波の被害に遭い、1ヶ月経っても六郷市民センターは、地域の方々の避難所となっています。児童館も併設されているので、私は持参した紙芝居を披露することにしました。
拍子木を打つと、子どもたちの瞳が一層輝くのを感じました。「それゆけアンパンマン」や「ごちゃまぜカメレオン」、それに大型絵本「どうぞのいす」などを読みました。およそ30分間、子どもたちは身を乗り出して、時には「おおーっ!」とか「わあ!」などと歓声を上げて楽しんでくれました。その素直な心と、反応の良さにつられて、私もエンジン全開! アドリブを交え、子どもたちとやりとりをしているうちに、私のほうが元気をもらいました。終わると、数人が駆け寄ってきて、今自分が読んでいる本や漫画のこと、また早く学校が始まるといいな、今度は3年生になるんだよ、ということを話してくれました。
津波の恐怖は消えないだろうし、さまざまなダメージを受けているであろう子どもたち、その屈託のない笑顔を見ると、「大丈夫!」という気持ちになるから不思議です。子どもたちの笑顔は、明日を創るエネルギーだと確信しました。
生きたくても、生きられなかった多くの方々の分まで、私たちは今ある命を大切に生きなければ!と、あらためて思いました。