バスの時間まで25分あったので、いつものパン屋さんでコーヒーを飲むことにしました。喫茶コーナーには隅の方に老婦人がひとりだけいました。隣に座るやいなや、ポケットのなかで携帯電話がブルブル鳴るので取りだしたところ、目の前にヌッと手が伸びてきました。隣の女性です。訳が分からず顔を見ると、私を睨んでいます。差し出された手を見ると、カードが握られています。「ペースメーカー」という文字が見えました。 「あ、気がつかなくて、ごめんなさい」。
慌てて携帯電話の電源を切りましたが、本当に切ったかどうか疑っているようすです。電源をオフにした電話を顔の前にニュッと向けて見せました。微笑むでもなく、無表情に軽くうなずいただけでした。まるで私を極悪人扱いしているような態度に、ちょっと腹が立ちました。離れた席に移ればいいのでしょうが、水戸黄門の印籠のようにカードをかざすその老婦人のことが気になったので、話しかけてみることにしました。 「いつからペースメーカーを入れているのですか?」
私が話しかけたことに驚いたようすでしたが、3年前からだとボソボソと答えてきました。話したくなさそうな感じがしましたが、お構いなく、亡くなった義父がペースメーカーを使っていたことや、数年ごとに取り換えなければならなかったことなどを話すと、表情の乏しかった目が少しイキイキしてきました。ゆっくりと、聞きとれないくらいか細い声で話し始めました。両膝も悪くサポーターをしていることや、転んでからは、外出のたびに手押し車を使っていること、きょうは歯医者さんに行って疲れたこと、ドライマウスだから、たえず水を口にふくまないと喋れないことなど、次から次へと話し始めます。
「お一人暮らしですか?」と,尋ねると、息子と娘がいるが、息子は結婚して近くに住んでいる、でも娘は数年前、44歳のときに癌で亡くなってしまい、今は一人暮らしだと……。78歳だというその人と、母の姿が重なりました。
バスの発車時刻が近づいてきたので席を立とうとすると、鞄のなかをゴソゴソかきまわし、「これ、あなたにあげる」。小さなビニール袋に入ったものをくれました。根付けのお守りでした。「私と色違い」と言って、鞄につけた白い根付けを見せてくれました。
「娘が生きていたら、ちょうどあなたぐらい。娘と話しているような気がして、楽しかった。話しかけてくれて、ありがとう」。
バスに乗ると、さっそくバッグにつけました。白い兎の根付けでした。