子どもの頃、休日にもなると、我が家の二階には、「録音中 立ち入り禁止」という貼り紙が! 泣く子も黙るこの貼り紙は、絶大なる力を持っていました。なにしろ、どんなことがあっても近寄ってはいけないのです。物音をたててはならなかったのです。なぜなら、父が歌の吹き込みをしていたからです。私も弟も、この貼り紙が嫌でたまりませんでした。
父はたいへん几帳面で気難しく、いわゆる"堅物"でした。そんな父の唯一の趣味が歌でした。私が物心つく頃から、懐メロや演歌をよく歌っていました。子ども心にも、上手だなと感心したことを覚えています。やがて、歌うだけでは物足りず、自分の歌声をテープに録るようになりました。
録音しているところを見せてもらったことがあります。今のようにカラオケのない時代ですから、それはたいへんな作業でした。まず、カセットテープの録音ボタンを押してから、唄の入っていない伴奏のレコードをかけ、抜き足差し足で、スタンドマイクの前に立ち、歌うのです。ちょっとでも物音がすると、またやり直しです。当時としては立派なオーディオ装置を揃え、レコードも100枚を下りません。レコードケースも手作りです。自分の歌を吹き込んだカセットテープも300本はありそうです。若い頃、喉自慢大会に出場したそうですが、人前で歌うのが恥ずかしくて、後ろを向いて歌って優勝したとか……!? 歌手になるのが夢だったようですが、人一倍恥ずかしがり屋だった父は、それ以来、"自宅歌手"一筋に励んだというわけです。
そんな父も、83歳。このところめっきり体力が落ち、歩くことも困難になってしまいました。そして、歌わなくなりました。歌えないのです。話し声さえ思うように出なくなってしまったのです。
最後に父の歌声を聞いたのは、いつだったかしら……? 脊柱管狭窄症の手術を受けて、退院したお祝いに箱根に行ったときだったような気がします。温泉からあがった父は、誰もいない喫茶室に私達を連れていき、カラオケ装置に100円玉をいれて、歌い始めました。初めておじいちゃんの歌声を聞いた息子は、感動していました。父は嬉しそうでした。
立て替えた家の二階の真ん中の部屋は、相変わらず父のオーディオルーム。CDプレーヤーとレコードプレーヤー、それにいくつものスピーカーが配置されています。
もう1度、「録音中 立ち入り禁止」という貼り紙をしてほしい。たまらなく、父の歌声が聴きたくなりました。