自宅から最寄りの駅まで徒歩8分。いつものように足早に歩いていた昼下がり。狭い歩道のはるか前方に、杖をつき足を引きずりながら歩く人影が見えました。ずんずん距離が縮まり目の前に迫ってきました。追い越そうと思ったのですが、その歩みは、追い越すのが忍びないほどゆっくりしたものでした。
右手で杖をつき、左手で左側にあるお店や塀など、ありとあらゆる物を支えにして、歩いています。歩くというよりは、右足を円を描くようにゆっくり前に出し、両手で支えて左足をズリッと引きずっています。"カタツムリよりも遅い!?"私はショックを受けました。私が3秒で歩く距離を、10秒も20秒もかけて移動していました。私は追い越すことができませんでした。なぜなら、駅の手前に横断歩道があり、左手でつかまる物がなくなってしまうからです。
その男性の歩みが止まると、私は自分の右手をパッと下から差し出し、「大丈夫ですか?」と、声をかけました。ギョッとした表情で私を見ましたが、私はおかまいなしに手を握り、スローモーションで動くように、並んで歩き始めました。父と同年代、70代ぐらいの方でカバンを肩から斜めにかけていました。肌寒いのに、額に汗をかいていました。軍手をした左手は、思いのほか力が強く、ギュッと私の手をつかんでいました。 「どこまでいらっしゃるのですか?」 私が尋ねると、 「市役所に用があって来たんですよ。これにひと駅乗ってから歩いて帰ります。」
車の来ないタイミングを見計らって横断歩道を渡りきったとき、その方は立ち止まりました。つないだ手を少し持ち上げて自分のほうに引き寄せて言いました。 「こんなふうに、あなたと手をつなぐことができて、僕は嬉しい。本当に嬉しい。きょうは良い日だ。でもね、この電車に乗って暫くすると、あなたと手をつないだことさえ忘れちゃうんですよ。良い事も悪いことも忘れちゃう。病気だから仕方ないけど…。電車、乗り遅れちゃって、申し訳ない。」
その時、電話の着信音が…。券売機の所まで行き携帯電話を取り出すのを手伝うと、私は軽く頭を下げて改札口へ向かいました。背後から、激しい口調の声が。ご家族からの電話に怒っているようです。さっきまでの穏やかな口調からは想像もできないほどの大きな声でした。
自宅にたどり着くまで、いったい何人ぐらいの人と手をつなぐのだろう? 温かい手のバトンをリレーしながら無事に帰れますように…。黒ずんで汚れていた軍手を思い出しながら、私は祈らずにはいられませんでした。