先日、NHK文化センターの講座を終えて、都内の小学校へ講演に行くために、大急ぎで地下鉄に飛び乗りました。乗り換えのために降りた大手町の駅でトイレに寄ったときのことです。口紅をつけて、「さあ、これでよし。がんばるぞ!」と、鏡の中の自分にエールを送って出ようとしたら、私の横で、さっきからじっと鏡をみつめている女性がいることに気がつきました。黒っぽいスーツに黒のパンプス、肩には大きな黒いバッグ。
「就職活動ですか?」 私の声に、ハッと我にかえったように、彼女は私のほうに顔を向けて言いました。 「はい。官庁を回っているのですが、なかなかうまくいかなくて。」 「たいへんですね。」 「もうダメかもしれないなって、ちょっと弱気になってます。」
力なく微笑む顔をみたら黙っていられなくなりました。時間がないにもかかわらず、私は、今しがた終えたばかりのNHK文化センターの話し方教室の授業を始めてしまいました。
「まず、挨拶が大切よ。明るくはっきりとね! ちょっと言ってみて。」 「は、はい。」 彼女は戸惑いながらも、硬い表情で「こんにちは」と鏡に向かって言いました。 「感じの良いウェイトレスは、どんな人? きちんと目を見て笑顔で話しかけてくれる人でしょ。おどおどしていると声に出てしまうの。名前も同じように、はっきり言わないと! 声は相手に届いて初めて意味を持つの。声を飲み込まず、自分の息にのせて、相手の心に届くように言うことがポイントよ。」
彼女は、鏡に向かって何回も練習しました。思いつめたような顔が、いつしか笑顔に変わっていました。時計をみると、15分も経っています。たいへん、間に合わない! お礼を言って見送る彼女に、「あのね、世界中どこを捜しても、あなたという人はひとりしかいないでしょ。だからたったひとりの自分のために、がんばってね!」と言って、小走りにトイレを出ました。それにしても、トイレで声をかけられ、いろいろ練習させられて、彼女はきっと驚いたことでしょう。
考えてみれば、駅の改札口から切符を切るはさみの音が消えて久しくなります。高速道路の料金所も、機械に取って代わられ人が姿を消しつつあります。「人」の働く場が急速に減り、しかも、「ニート」とよばれる、親を頼り就職したがらない若者が増えている昨今。就職したいと一生懸命な人がいたら、たとえそこがトイレであろうとどこであろうと、エールを送らずにはいられません。彼女の合格を祈りながら、私はひたすら走りました。ああ、汗でせっかく直したお化粧が……。学校についたらまたトイレに行かなきゃ!