引出しの整理をしていたら、一枚のメモが出てきました。古びた紙に男性の名前と住所と電話番号が書かれていました。見覚えのない筆跡ですが、丁寧に書かれたその文字を見て、私はなにか大事なことを忘れてきたような気がしてなりませんでした。そんなある日、久しぶりに乗ったタクシーが、私の記憶の扉を開いてくれたのです。
20年程前、NHKのラジオのニュース番組「NHKジャーナル」を担当していたときのことでした。夜11時までの生放送を終え、タクシーで家まで送ってもらっていました。いつもは運転手さんと話が弾むのですが、その日は、なぜか会話が続きませんでした。丁寧に応対してくださるのですが、その背中は、話しかけることを拒絶しているように思えてなりませんでした。 「どうかなさいましたか?」 私が声をかけると、運転手さんは、しばらくなにも言いませんでしたが、やがて静かに車を止めました。 「お客さん、すみません。ちょっと……泣いていいですか。」 赤い目をしていました。ただならぬ気配に、私は息をひそめていました。すると、震える声で話しだしました。 「さっき、病院に行ってきたんです。検査の結果を聞いてきました。女房が、このところおかしくて。クーラーなんかないのに、クーラーの音がうるさいとか、昼飯を食べたばかりなのに、またつくり始めたり……。そうしたら、アルツハイマーという病気だって言われました。あと、2、3年の命だって……。」
当時は、まだ「アルツハイマー」という言葉に馴染みがなく、私はききかじりの知識しか持ち合わせていませんでした。それからおよそ30分、私はじっと話に耳を傾けました。40代後半の奥様には苦労をかけっぱなしで、夫婦で福岡から上京してきたこと。やっと楽をさせてあげられる、旅行もできると思っていたこと……。
衝撃的な告白を受け、私は、ただ泣くことしかできませんでした。一緒にひたすら泣きました。いい情報があったら資料を送るから、という私の求めに応じて書いてくださったのが、あのメモだったのです。 「奥様は、あなたと結婚して良かったと、きっと思っていますよ。」 「ありがとう。少し心が軽くなりました。これでいつもと変わらぬ顔で帰れます。」 そう言いながら、差し出してくれたメモでした。
結局、なにも送れなかった。なにもできなかった! 20年前の非力な私の涙がよみがえってくる、切ないメモでした。