口をへの字に結び、腕を組んでいすに座っている男性は怒っているようでした。私が笑顔で「皆さん、こんにちは」と挨拶しても、口はへの字のまま……。
「音読と朗読は違います。音読は自分で声を出して読むこと。朗読は聴いている人に向かって読むことです」。私が話し始めても「ふん」といった感じです。朗読講座は、ほとんどが女性の方ですが、この時は男性が4人もいました。への字の男性は最前列の中央に陣取っています。私は声をかけてみることにしました。
「こんにちは。どうしてこの講座を受けようと思ったのですか?」
「この歳になるまで、朗読というものを習ったことがないから、一度習いたいと思って。入れ歯でも大丈夫ですか?」
「もちろん、入れ歯でも丈夫ですよ! おいくつなんですか?」
「90歳です」
全員から驚きの声が上がりました。私の教えている中で最高齢です。への字が、笑顔に変わりました。第一印象が怖かったですよと言ったら、皆にそう言われるとおっしゃっていました。90年生きてきた方の朗読は、基本がどうのこうのということを飛び越した味のあるものでした。
歳をとると、口をへの字にして歩いている男性をよく見かけます。我が家の前をいつも怖い顔で、日に数回往復している男性がいます。奥様に先立たれたのかもしれない……と、私は想像しています。先日、私が庭先にいたら、ちょうどその男性が我が家の前で立ち止まってポケットを探っていました。
「何かお探しですか?」
「手拭いを忘れてしまったようで……」
私はすぐに自宅から手ぬぐいとタオルを持って「これでよかったらお使いください」と差し出しました。すると、への字が崩れました。驚くほど柔和な顔で、「いやあ、すみません。うちはすぐそこだから取りに帰ればいいんだけど、せっかくだから使わせてもらいます。これから医者に行くのに忘れちゃったもんで……」
こんな優しい顔で笑うんだ!
数時間後、チャイムが鳴りました。その方が最中の箱を持って立っていました。行列のできる評判のお店の最中です。タオルのお礼というではありませんか! 海老で鯛を釣ってしまいました。おいしかったことは言うまでもありません。
への字は、「話しかけてくるな」「不愉快だ」というサインだと思っていましたが、そうでもなさそうです。歳をとると、表情筋が衰え口角も下がり、男性も女性も口がへの字になるのは自然なことなのです。一見怖く見えるへの字の裏側には、笑顔が隠れていることを確信しました。