雨上がりの午後、自宅に向かって歩いていたら、ちょうど我が家の前でタクシーが停まりました。お向かいの家のご主人がキャリーバッグを片手に自宅の方へ歩いていきました。旅行帰りかなと思ったのですが、タクシーはなかなか発車しません。ドアは空いたままです。見ると車内から杖が地面に伸びています。足の不自由な奥様が降りられなくて困っていました。私が駆け寄って手を差し出すと、「ありがとう」と言ってギュッとつかみました。
すると、一足先に玄関に向かったご主人が「手伝わないでください!」と、私に言うではありませんか!?思いがけない言葉に驚きましたが、タクシーから早く降ろさないと、後ろの車に迷惑がかかるので、私は強引に手を貸して降りるのを手伝いました。そのままご自宅まで手を引いて歩こうとしたら、「ひとりで歩かせてください。そうしないと、この先困るから」と、おっしゃいました。冷たい言葉に驚きました。心配しながらも手を放し見守っていると、「今病院の帰りなんです。私、肺がんでもうじき死ぬんです。だから一人で生きていってもらわなきゃならないので。強くなってもらわないと……」と、ご主人がおっしゃいます。
そういえば、数日前、杖を突きながらリュックサックを背負い買い物に出かける奥さまを見かけたので声をかけたら、ご主人が免許を返上したとおっしゃっていました。末期の肺がんで手術もできないそうで、抗がん剤治療に入る前に、一旦自宅に帰ってきたのだそうです。困った時はいつでも声をかけるように伝えて、私も自宅へ戻りました。
それから暫くしてご主人は入院し抗がん剤治療を始めたのですが、あまりにも辛かったので、治療は止めて、残りの時間を自宅で過ごすことに決めたそうです。
先日、救急車がやって来てしばらく停まっていました。訪問看護の担当者が救急車を呼んだようです。道路に停めてある車を、夫がうちの庭に移動するように言いました。救急車が発進すると、訪問看護の男性がやってきて車のお礼を言いました。奥様は大丈夫かと尋ねると、「力を落としているので、声をかけてあげてください」と、言っていました。何度かチャイムを鳴らしましたが、反応はありませんでした。きっと最期の時を病院で迎えることになるのでしょう。
一人で生きていかなくてはならないから手を貸さないというのも一つの考えでしょうが、「手を貸してください」と言ってくれた方がいいのに……。人それぞれではありますが、老夫婦の覚悟に、切なさとやりきれなさを感じました。