「間もなく定年退職します。職場で挨拶をしなければならないのですが……悩んでいます。」
そう言って、1年前に私の話し方教室に入ってきた男性がいます。明るく感じの良い方ですが、マイクを持つとこわばった表情に一変します。人前で話すことを想像するだけで、緊張して頭のなかが真っ白になってしまい、しどろもどろになって汗をかくと言っていました。言いたいことの半分も言えず、自己嫌悪にさいなまれてきたという公務員生活の最後の大舞台で、ビシッと決めたいというのです。
願いをかなえてあげたいと思いましたが、退職の挨拶をする日まで数日間しかありません。スピーチの組み立て方のコツを伝授し、全員の顔を見て、爽やかな表情で話すことを練習してもらいました。スピーチ原稿をパソコンに送ってもらうと、案の定、一文が長くなっていました。スピーチ原稿は一つの文章を短くすることがコツです。原稿を書くとなると、どうしても修飾語が多くなり、一つの文章が長くなってしまいます。主語は何だったのか、聞いている人が悩まないためにも、一文は50字以内にするといいということを伝えました。また、聴きやすい速さの目安は、句読点も入れて1分間に300字なので、不要な言葉を省き、話し言葉ですっきりとした原稿に手直しして送りました。彼は鏡を見ながら何回も練習し、無事に退職の挨拶をすることができたそうです。心にしみる温かい挨拶だったと言われたと、晴れやかな表情で報告してくれました。退職後は、地域の福祉施設で働き始めました。
その男性から手紙が送られてきました。1か月に1回しかない講座なので、1回休むと2か月間会えなくなってしまいます。彼は先月休んでしまったので、私や教室の仲間に報告できなかったからと手紙を書いてくれたのです。そこには、話し下手な自分だったけれど、なんと、1時間も講演したということがつづられていました。障がいのある人たちとどう付き合ったらいいのか話してほしいと頼まれ、1週間悩んだのちに引き受けることにし、講演もうまくいったと書かれていました。読んでいて、私まで嬉しくなりました。1年前では考えられないことです。
「変わりたい!」という思いがあれば、人は変わることができるのです。この歳だからもう無理などということはありません。何もしないで後悔するより、やるだけやってダメだったら諦めもつきます。定年退職してから輝きだした男性が、改めてそのことを教えてくれました。