ふるさとと関わりを持つようになって、家族のことに思いをはせる日が増えました。母からたくさんのことを教えてもらったと、あらためて今は亡き母に感謝しています。
幼いころ、祖母と母に連れられてよく買い物に行きました。私が育った東京都の西部にある八王子市には、「まるき」という百貨店がありました。屋上には小さな遊園地があり、青空に浮かぶアドバルーンを見るのが好きでした。レストランには、憧れのお子さまランチがあり、ケチャップご飯の上に、ちょこんと旗が立っていました。初めてソフトクリームを食べたのも、まるきでした。街に買い物に行くと、「きょうは、まるきに連れて行ってくれるかな」と、わくわくしたものです。
着物の色が派手になってしまったから染め直すときには「矢島染物店」、下駄(げた)や草履を買うときは「福島履物店」、洋品店は「カトウ」、ちょっとおしゃれなものが欲しいときには「乙女や」に行ったことを覚えています。八王子市学園都市文化ふれあい財団に通うようになって、それらのお店を見に行きました。たたずまいは変わりましたが、なくならずそこにあることに感激しました。今も人気の「都まんじゅう」をお土産に買うのは、いつも祖母でした。
母と祖母は仲が良く、いつも一緒にいました。嫁(よめ)姑(しゅうとめ)の確執など全くありませんでした。近所のおばさんたちに「まきちゃんちは、おばあちゃんとお母さんの仲が良くていいね」とよく言われました。なかには、「おばあちゃんとお母さん、けんかすることもあるでしょう?」と、聞いてくる人もいましたが、けんかしているところを見たことはありませんでした。自慢の母と祖母でした。
ところが、私が結婚したころ、母に言われたことがあります。家計はおばあちゃんに握られていて、自由に使えるお金はほとんどなかったと。そのことで父とけんかをしたこともあると告白されました。居心地がいいと感じていた我が家は、母の我慢の上に成り立っていたのだと知りました。まるきで、お子さまランチを食べたいと駄々をこねると、母が困った顔をした訳をこの時知りました。いつから、家計を母に任せるようになったかはわかりませんが、祖母が96歳で他界するまで、母はじつによく面倒を見ました。自分の母親は3歳の時に死んでしまったから、姑を母親だと思って親孝行するのだと言っていました。その甲斐あって、祖母は父のことはわからなくなっても、母のことは最期まで慕っていました。母がいっさい愚痴をこぼさない人だったので、私はのびのびと育ったのだと感じています。